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今この瞬間少し立ち止まってみるということ

みなさま。こんにちは。河口智賢です。オンライン坐禅会第21回目にご参加いただきありあがとうございます。

日に日に季節が移り変わっていきますね。風も空気も冷たくなっていき、朝布団から出るのも少し億劫になってくる。日が昇れば体が目覚めてきて、暗くなれば眠くなる。

日常の中でのご自身のあるべき姿、そういったものを気づくためには、一旦立ち止まってみるということが大切です。

例えば、走った状態のまま写真を取ろうとしてもブレてしまいますよね。綺麗に写真を撮ろうと思ったら一旦立ち止まって狙いを定めて撮ります。

だからご自分の姿を見るときもそうです。走りながら見るんじゃなくて一旦こうして止まって一呼吸おいてみることですね。

さて、今回いただいたご質問が、「お葬式の必要性について」です。






私もこういった時間の中でお葬式や儀式について自分から触れてお話する機会がなかったなと気づきました。

お寺ってお葬式やご法事とかで足を運ばれる方がほとんどだと思います。私のお寺でのビジョンは “生きるということ”をテーマにしてこのお寺づくりです。しかし人を弔うということは生きること同様にとても大切なことです。

「生を明らめ死を明らかにするというは、仏家一大事の因縁なり」

生きるということは、そして同時に死があるという道理を理解する。この因縁を理解することが私たちには一番大事なことである。

曹洞宗の修証義というお経の冒頭に出てくる文章です。

私たちはこの世に生まれて、歳をとり、いつか病に伏せて、この身体が朽ちていく。

お釈迦様はその生老病死という苦しみの中で生きていることに気づかれて悟りを開きました。

私たちは生まれた時には沢山の人に祝ってもらい迎えていただきます。歳を重ねるときは色んな人と共に歩み願いながら成長していきます。 病に伏せた時は、誰かに支えていただいたりして、早く治るようにと祈り寄り添ってもらいます。そして死を迎えるときは、いろんな人に感謝をし、感謝され、弔い、送られていきます。

こうして生まれてからいろんな人と関わって、沢山のご縁の中で生き、死を迎えます。悲しみがあったり、辛い別れがあったりします。

“おくる“ということ

お葬式という儀式の中で1つ1つお別れというもの、感謝というものを確認することもお葬式の大きな役割です。

そして“おくる“ということが大切です。

記憶の中に“億る”

故人が生きてきた証を記憶としてご自身の中にしっかりと刻み、これからも共にと願う気持ちです。

仏のもとへと“送る”

この世での苦しみから解かれ、仏のもとへと安らかに帰っていくことを願います。

感謝の気持ちを“贈る”

故人とのご縁に感謝し、ご自身のお姿を供え“ありがとう”と祈りを捧げます。

儀式やカタチとはの必要性とは拠り所

儀式に意味を求めることはごくごく自然なことです。しかし、意味がなければ必要ないと考えることは違うと思います。

身心一如(しんじんいちにょ)という言葉があります。身体があって心がある。心があって身体がある。どちらかだけでは存在できないわけです。身体という目に見えるカタチの中に目に見えない心が宿っています。

坐禅の作法。ご飯の作り方や食べ方という作法。武道も茶道もビジネスマナーなど世の中には沢山のカタチや作法があります。それぞれに道理があり、意味があります。逆に私たちはカタチや作法、またはルールがなければどのように進んだらいいのか分からなくなってしまいます。

儀式を行うことは、はっきりとその瞬間の事柄を認識し、自然と気持ちが向かっていくことに意味があると思います。

お葬式の中では様々な儀式が行われ、実は一つ一つ全てに仏となっていく過程の意味が込められています。そして別れを認識し、互いに未練や執着から離れるためでもあります。

昔は野辺送りと言って、地域の人が墓地まで故人を送りその儀式に携わることでお葬式を実感することができました。

私はお葬式の中では素直に泣いていいと思ってるんです。悲しみを出せる場はそこしかないかもしれない、別れの言葉をかけることもいつかと思ってできるものでもありません。

その今、この瞬間のひとときの中で、立ち止まって故人と、またご自身と向き合い素直にその場に身を寄せること、それがお葬式という儀式の大切な意味だと思います。

今日という1日を大切にお過ごしください。

次回は10月25日朝6時からです。

また次回日曜朝にお会いできることを楽しみにしております。

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